「日本語カタカナ化現象」の謎

 やたらと日本語をカタカナ化するタイトルやキャッチコピーが最近多くなっている気がする。
 典型的でよく見るものは、「コトバ」「ココロ」「チカラ」「ツナガル」「キズナ」「イノチ」「ニッポン」など。
 個人的には「カタカナ、使いすぎでは……」と思うことがあるのだけれど、多くの人々が受け入れているからこそ提供する側がそういう言葉を発信しているのだから、それはまぁそんなことを言ってても仕方がないとして、僕が気になっているのは、どうして多くの人がこんなにカタカナ語を受け入れているのかなということなんです。

 そのことをここのところずっと考えていたのだけど、この前『「かわいい」論』という四方田犬彦さんという人の本を読んで、すこしわかったような気がする。

 『かわいい』を語るメディアが説いているのは、幸福感であり、消費主義であり、生理的年齢に対する精神の勝利である。また手の届くところに置かれた祝祭であり、選ばれてある「わたし」をめぐる秘密めいた快楽である。ではそこで、隠蔽されているものは、何だろうか。それは消費の快楽に対立するもの、つまり一言で言うならば労働であり、歴史であり、雑誌の作り手と読者が作り上げる共同体の外側にある他者である。『かわいい』は現実の神話たりうるために、それらに取って替わる項目を、あたかも予防接種のように準備している。歴史の替わりにノスタルジアや「人生の経歴」が、他者の替わりに「エスニック」がここぞといわんばかりに顔を覗かせ、『かわいい』の伴奏を担当している。『かわいい』と称せられた人間は、何らかの意味でステレオタイプを宛がわれることになる。……

 赤ちゃんを「かわいい」というとき、一日中泣きわめきうんこしっこを垂れ流す赤ちゃんのうっとおしさは蔽い隠される。おばあちゃんを「かわいい」というとき(ほんとうに言う若い女の子がいるらしい)、老いや価値観の違いは蔽い隠される。世の中には多くの「かわいい」があふれているが、ある物を包み込んで、魔法の呪文のように「自分にとって心地よい物」としてしまう性質は変わらないのだ。そう四方田さんは分析します。
 言葉は常に何かを現すと同時に何かを隠蔽するものだとも思うけど、「カタカナ化」も「かわいい」と同じくらいイデオロジカルに何かを排除している気がします。例えば「絆」ではなく「キズナ」を使うことは、その言葉を発する人と受け取る人との間で新しい暗黙の「共同体」ができて、これまでの絆という言葉が使われてきた歴史やそれに基づく暗黙のニュアンスを共有している人々を排除する方向に作用する、ということはある程度はあると思うわけです。

 逆にいえば、それこそが、つまりカタカナから受ける横文字的な新しい印象こそがカタカナ化の価値でもあります。「僕らの言っている『キズナ』は今までの絆じゃないよ。君たちがまだ知らない、でもとっても価値のある『キズナ』なんだよ。だからこのキャンペーンに参加しなよ!」(『』内はなんでもよい)というのが、カタカナ化された言葉の「裏(メタ)メッセージ」のうちの一つなのでしょう。
 

 しかし、一方でその「排除」の危うさのようなものが僕にはどうしても気になります。四方田さんは「かわいい」という概念が、一つ間違った方向に倒れれば、「共同体」の外側の人や物への暴力にもなりうることを示唆していますが、「カタカナ化」はどうでしょう。カタカナ化された言葉は、キャッチーで、なんか新しそうで、わかりやすいけれど、どこかで僕たちに思考停止を呼びかけてこないでしょうか?すべてのカタカナが、とは言いませんが。

 例えば、日本の企業が好成績をあげた記事には「ニッポンの底力!」。ワールドカップの時の、あのものすごい勢いでやってきて去っていく盛り上がりのなかで叫ばれるのは、「ニッポン!ニッポン!」あるいは「〜ジャパン!」。もちろん、カタカナが、企業の新聞記事やスポーツの速報で連呼されているくらいでとどまってくれれば、いいんですけど、そういう使われ方で培われた「ニッポン」というマジョリティがマイノリティの立場の誰かを現実に阻害し始めたら、と思うと、ちょっと怖い。カタカナのそういうところが、僕の違和感の理由なのです。