「顔」が見えない国のメディアと社会

「顔」が見えない国のメディアと社会

 結局、うちの国では、手柄やスクープや業績もそうだが、失言や失敗や訴訟リスクのようなことも含めて、すべてを会社(ないしは組織)が引き受けることになっている。C君を追い詰めることに決めた彼等は、そこのところにつけこんだわけだ。
 社員が問題を起こすと社長が謝罪会見を開き、生徒の不祥事に校長が頭を下げねばならない社会で、罪を問うには、当事者である個人を責めるより、会社経由でチクった方が効果的なのだ。

 攻める側も、看板の陰に隠れて、顔を見せないようにして闘う。
 まるでアニメ映画に出てきた「カオナシ」だ。
 そう。ネットを舞台にした事件に共通するのは「顔が見えない」ということだ。

 禿氏も顔が見えないし、それを摘発し、通報した人間の顔も表に出てこない。処分を決断した人間の顔もわからないし、ビデオリサーチがどこでどう動いたのかも判然としない。

 一方、立教大学の放言居士君の顔は、いち早く判明し、各所に晒され、リツイートされ、再配布され、回覧され続けている。
 が、その彼を追い詰めて処刑している無数のボランティア処刑人たちの顔は、誰一人として表面に出てこない。

 つまり、「卑怯」ということが、インターネットの特性なのだろうか。
 違う。
 卑怯は、むしろわれわれ日本人の心性に根ざしている。
 インターネットそのものは、展開している国によって、少しずつ違う顔をしている。
 たとえば、ウィキリークスの親玉であるジュリアン・アサンジ氏の、極めて強烈な自己顕示欲と比べると、わが国のネット市民の内気さは異様でさえある。

 日本のネット社会の負の側面……。時々こういう「晒し」のようなことが起こるのはたしかに不気味といえば不気味です。