私の「もやもや」を晴らしてくれたザッケローニ監督

私の「もやもや」を晴らしてくれたザッケローニ監督

 でも、スポーツ新聞がヘッドラインで「ザック」の三文字を大書することや、ニュースショーのキャスターが「ザック采配」についてあれこれ語るのは、間違いのはじまりになると思う。
 というのも、「ザック」と呼んだ瞬間に、取材者と取材対象の距離感が曖昧になり、批評する者とされる者の間の緊張感が消失してしまうからだ。
 メディアの人間は、代表チームの監督に対してきちんとした距離感を保っていなければならない。

 マスコミは前の監督の岡田さんについても「岡ちゃん」という呼び名で呼ぶことを好んだ。
 これも良くなかった。
「岡田さん」「岡田監督」「岡田氏」と、しかるべき距離(と最低限のリスペクト)をとっていなかったおかげで、「岡ちゃん」関連の記事は、どこか無責任だった。
 岡ちゃんに甘えた記事。岡ちゃんをあなどった記事。岡ちゃんをただのネタとして消費するだけの原稿。そういう駄文がいかに多かったことか。
 ザッケローニ監督に対して、同じような馴れ合いが生じる事態はぜひ防止せねばならない。

 対監督に限った話ではない。
 誰であれ、「佑ちゃん」「ダル」「愛ちゃん」「真央ちゃん」「遼クン」「ウッチー」「浅尾きゅん」「ミキティー」と、そういう距離感のデタラメな呼称を使っている限り、適正な批評を含んだ記事を書くことはできない。

 というよりも、取材対象に愛称で呼びかける形式の語法は、元来、芸能マスコミのレトリックであって、マトモなジャーナリストが採用して良いはずのものではない。

 「裕ちゃん」「ひばりちゃん」の時代から、芸能マスコミは、タレントを「ちゃん」付けで呼んできた。恋人や娘に語りかける時と同じ、下の名前だけを呼ぶ「愛称」が、彼等の呼びかけ方の基本で、「愛称」がもたらす「親しみ」と「距離の近さ」を芸能記者は何よりも珍重する。だから、タレントの側もそう呼ばれることを望む。芸能界というのはそういう場所なのだ。彼等はプライバシーを放棄しているのではない。芸能人にとっては、あらゆる場所が私的な空間なのであって、スターというのは、すべての人間との間にプライベートな関係を取り結ぶことができる存在なのだ。そうでなくても、ファンとの間にプライベートな妄想を紡ぐことが彼等の仕事ではある。

 面白い記事です〜。サッカーをめぐる言説って確かに結構イデオロジカルですよね。