物語を生きることについて

 美学上のトピックとして長く議論されてきた問題に「悲劇のパラドックス」というものがあって、それは簡単にいえばなぜ人は「生きるべきか、死ぬべきか、それが問題だ」と悩む劇中のハムレットを観て感動するのか、ということです。演劇や小説には悲劇的といわれるような苦痛や苦悩といった、主人公にとってはそれが基本的には不快な感情であるような場面がたくさんあるにも関わらず、人はなぜそれらの場面に感動し涙し、ある種の快感を得るのだろうか。

 伝統的な近代芸術学(美学)は、基本的には、演劇や小説は観ている人を主人公の心理に同化させるものである、という考え方であったため、この問題をなかなか解決できないでいました。しかし、この考え方は、フィクションの世界が現実の世界の僕たちに同じように作用すると認識しているという点で誤りなのです。この考え方では、なぜ人が現実に「生きるべきか死ぬべきか」と悩んでいる人を前にして彼に「同化」なり「共感」なりをすることで悲しみこそすれ感涙しないかという問いに答えることはできないのです。

 フィクションとは一つの独立した物語という体系であり、その物語の展開での期待や不安、様々な登場人物の関わりあい、予想外の発見、圧倒的なラスト、そういった体系内の一つ一つの要素の連続が、観客に感動をもたらすのである、というのが今の美学の考え方です。うちの研究室の教授はそのような効果を「フィクションの快楽」と呼んだわけなのですが、物語にはそういった現実には作れないものを作り出す力があります。

 
 自分の人生を完全にフィクションにすることはできませんが、それでも一つ一つの行動がなぜか「絵になる」ような人って時々いますよね。理解も共感もできないけれどなぜか人の心を動かすような人もいますよね。そういう人になるには、自分の人生を一つの物語として生きているという自覚が必要なのかもしれません。
 ここからは、内田樹という人が言っていたことなのですが、物語を語るには、始まりと終わりを知っている「語りの視点」が必要です。人の人生を物語とするのなら、語りの視点はどこにあるかといえば、それは、「死んだ後の自分」に他なりません。全てが終わった後に仮想的に立ち現れる、自らの生涯を語る自分。そのような死者としての自分を生きているうちに想像できる者だけが、自分の人生を物語として生きることができる。

 だから、自らの人生を生きたければ、自らの死を思え、という考え方に行きつくわけです。メメント・モリ。若干宗教っぽいですが、僕はこの考え方がとても好きです。

 そんな感じで、これからはなるたけドラマチックな日々を送れますように頑張ります〜。