ノンアルコールビールとターンテーブル

ノンアルコールビールとターンテーブル

若者にモノが売れないと嘆く声が、昨年はあちこちから聞こえてきた。そこに無根拠な若者批判の匂いをかぎ取ったネットの人たちなんかは、バブル世代を基準にするなと反論したが、肝心の部分は分からないままだった。要するに、お金がないから消費しないだけで、ほんとは一回履いたスニーカーは二度と履かないみたいな生活がしたいと思っているのか、かつて欲しがられていたモノへの購買意欲そのものがないのか、ということだ。

この問題は実際には検証できないことで、それというのも、「かつての消費」というものは、「将来にわたるレギュラーな収入」によって支えられていた可能性が高く、宝くじで数千万円当たったからといって、そうしたレギュラー収入で購買意欲をかき立てられる商品にマインドが向かうとは考えられないからだ。消費というのは、消費するためのスキルや価値観を涵養する環境と一体で可能になるものだ。

(中略)

モノがモノとしての魅力を持つということは、ある種の反社会性や危うさのような要素と関係した出来事である。だからこそその危うさは常に管理や規制の対象になるのだけれど、規制に妥協しながら消費者の欲望に応えようとするとき、そこから出てくるのはノンアルコールビールのような、仕方なく我慢して消費する代用品のような商品だ。アナログDJだって、ヴァイナルの持つ面倒さを管理可能なものにしようとすれば、デジタル化して、直系8センチくらいの円盤ふたつをPCにつないで操作するようなインターフェイスにする方が合理的なのかもしれない。

でもそこでわざわざ、アナログターンテーブルの操作感だけをインターフェイスとして商品化することで、かえってモノの魅力を増したケースが、DZ1200なのだと言える。モノが売れないと技術者が嘆くとき、そこで目指されている技術的な努力が、ノンアルコールビール的な商品を作るためのものなのか、デジタルターンテーブルを作るための努力なのか。そういう観点から見返してみることがあってもいいのかもしれない。

 技術の方向性をノンアルコールビールターンテーブルの二つに分けて考えている所が面白いです。例えば電子書籍はどうなるだろう?デジタルターンテーブルのような電子書籍は作れるだろうか?
 鈴木謙介さんは僕が信頼している社会学者さんなのです。