“暴露装置”ウィキリークスは公益にかなうのか?

“暴露装置”ウィキリークスは公益にかなうのか?

 あくまでも仮定の話だが、もしもそうなった場合、何を意味するのか。先にペンゴン文書を引いたので、ベトナム戦争を例に考えてみよう。戦争が人を狂気に追いやることはベトナム戦争を戦後に扱った多くの作品で描かれる。例えばフランシス・フォード・コッポラ監督による映画『地獄の黙示録』では米軍の命令系統から逸脱し、ジャングルの奥地で原住民を集めて王として君臨するようになった元アメリカ軍大佐が登場する。自分を殺しにやってきた若い米兵に対して元大佐は、感情も情熱も分別もなく、まるで反射行動のように原始の本能で人を殺すベトコン兵士を褒め称えてみせた。元大佐はまるで「分別を持たない狂気の状態こそ、最強の兵士を生み出す。ニクソンのマッドマン理論など戦略上の戯言だ。狂気を理性的に用いようとする分別があるから米軍は彼らに勝てないのだ」と言いたげだ。

 同じロジックで、何一つ隠す必要性をも認めずに暴露を行うようになったウィキリークスは分別を持たないが故に兵士が「最強」となるのと同じく、「最強」のジャーナリズムになるのかもしれない。そして国家機密のすべてが白日の下に晒され、国家そのものが自己の輪郭を保てず溶解する日が来るのかもしれない。

 しかし、ウィキリークスがそうした暴露装置と化した時、今は国家や大企業の秘密を暴くその姿勢に「強きをくじく」ものとして期待を寄せているいる人も、それが「弱きを助ける」ものではないと知ることで、それをジャーナリズムと呼ぶことに躊躇をするのではないか。