ミシェル・フーコー『言葉と物』

言葉と物―人文科学の考古学

言葉と物―人文科学の考古学

 もっとも単純な秩序の設定にも、「諸要素の一体系」――すなわち、そのうえに類似と相違があらわれるような線分の規定、そうした線分が蒙りうる変異のいくつかのタイプ、最後に、そのうえには相違があり、そのしたには相似がある、といった境界――が不可欠なのだ。秩序とは、物のなかにその内部的法則としてあたえられるものであり、物がいわばそれにしたがってたがいに見かわす秘密の網目であるが、同時に、視線、注意、言語(ランガージュ)といったものの格子をとおしてのみ実在するものにほかならない。だからその秩序が、言表される瞬間を沈黙のうちに待ちうけながら、すでにそこにあったものとして真相に姿をあらわしてくるのは、ただその碁盤目の白い仕切りのなかからにすぎない。

 十八世紀末以前に、《人間》というものは実在しなかったのである。生命の力も、労働の多産性も、言語(ランガージュ)の歴史的厚みもまた同様だった。《人間》こそ、知という造物主がわずか二百年たらずまえ、みずからの手でこしらえあげた、全く最近の被造物にすぎない。

 図書館で借りて斜め読み。あらゆる人文科学の言説に引用される社会学の巨人の代表的著書の決め台詞はやはりかっこよかったです。
 私たちのあるものに対する認識の仕方を、それが生まれた時代にまでさかのぼって、それに対する言説がどのようにそれを秩序づけてきたかを再考することで明らかにする。だから副題が「人文科学の考古学」なのだと思います。多分。そう考えると、「人間」という今の僕たちにとって一つのまとまった存在に対する認識さえも、18世紀末からの様々な言説によって秩序づけられたものなのでありました。