ヴェルサイユ宮殿に村上隆が連れてこられた

ヴェルサイユ宮殿に村上隆が連れてこられた

 初回の文章を引用しよう。


 デザインはよく「クリエイティブな仕事」と言われ、「ゼロから何か新たなものを産み出す」と理解されやすい。デザイナー自身も「産む」という感覚を持ちながら、作業を続ける。最近は際立った性能差をつけることが難しくなってきていることもあり、デザインにアート的な要素が以前にも増して求められていることもある。

 しかし、アートに傾注した“尖がった”デザインは、一部の好事家から高い評価を受けたとしても、広く万人受けすることはほとんどない。それよりも、ある コンテクスト(状況や背景)に沿って良い脚本が作れるかどうか。モノづくりにおけるデザインにとっては、こちらのほうが大切なポイントとなる。


 西洋のアートは宗教の時代であれ、絶対王政の時代であれ、それぞれの時代に「登用」されてきた。教会の壁画や国王の肖像画が、それを物語っている。アーティストの主張で世の中が作られたのではなく、その時代の文脈でアートがはまり込んできた性格が強い。19世紀から21世紀にかけてアーティストが言えることが増えてきたであろうが、文脈が第一にあることは基本的に変化はない。

 初回の記事でデザインとアートを分けたが、この観点からするとアートもゼロから生むのではない編集作業の要素の強いフィールドと言える。ヴェルサイユ宮殿村上隆の作品が連れてこられたと言い換えると、本展覧会の意図がとても理解しやすいのではないか。

 個々の作品のできが良いとか悪いとかの評価の問題ではない。だから、「あいつを連れてくるな!」という反対の声があっても、「あいつのどこが悪い? 俺たちのコンテクストには合うんだ!」という反論が容易に成立する。

 「コンテクスト」はとても大事ですね。なぜ今、その作品なのかということはとても重要。ヴェルサイユというある意味西洋文化の総本山に今や極東のアーティストの作品が堂々と展示されるということの意味はやはりあるんでしょうね。でも、なんだかそれってどこまでいっても相対主義で、もともとあった「西洋/東洋」の枠組みに沿った話になってて、もう少し他にあるんじゃないかな、とも思います。