川上未映子『わたくし率 イン 歯ー、または世界』

わたくし率 イン 歯ー、または世界 (講談社文庫)

わたくし率 イン 歯ー、または世界 (講談社文庫)

 振り返れば一歩ごとのわたしが列になってつづいてる、並んでる、過ぎて行った無数の今がゆるい曲線の軌跡になって、おお、わたしは無数のわたしの先頭となって走りつづけ青木の後を追うようにして夜の中を前進します、前進します、夜が青木の黒い背中を隠すように、先へ先へ、押すようにどんどんどんどん遠くなる、わたしは青木、と名前を叫んだり呼ぶことが、このたったこの今に、どうしてもすることができひんくて、そうです、わたしが呼びとめたいのは名前を呼ばれて立ち止まる、その青木ではないのです、名前やなくて、背中やなくて、セーターやなくて、わたしは青木の中の私、をこそ呼びたいのに、それに名づけることはできないのです、ああ、だからこそ、あの、手紙に書いた、仲直りの約束をして欲しい、青木を追ってわたしの足が巻きあがろうとするのを奥歯で必死に制しながら、夜を渡って、風に抜かれて歩いてゆきます。

 才能ほとばしりまくりの文体にもうなんというかクラクラきてしまった。
 前に村上龍が(村上龍の話を僕はなぜだかよく覚えているんだけれど)芥川賞について話していたときに、「他の表現もたくさんあるのだから、無理して小説する必要もない、必要のあるものだけ書けばいい」というようなことを言っていたのだけれど、これを読むと彼の言いたいことがわかる気がします。実際この後とったし、芥川。

 例えば、他のメディアでこれを表現するとして、「わたし」と「私(わたくし)」の違いをどうする?もしこれを英語に訳して出版するとして、タイトルをどう訳す?多分無理ですよね……。

 日本語の言葉の流れでしか表現できない何かがここにはあって、なんというか、読んでいるだけでクラクラしてくるそれを自分の懐にいれて大事にとっておきたい気分です。