言葉についてのメモ

 「まず自分の頭の中に何かしらの『コンセプト』があって、それが言葉という媒体によって誰かに伝わっていく」という考え方をしている人が多いかと思います。

 そういう風に考える方がやりやすいときも沢山ありますが、それだけではない、と僕は思います。順序が逆な時もたくさんあります。

 わかりやすいのは、威勢のいい高校生が先生に向って「あぁあ!?」とか「やんのか、おん!?」とか言ってる時です。別にあれって「あなたは何と言ったのですか?」とか「あなたは私と戦闘する気があるのですか?」とかそういう彼の頭の中にあるメッセージを伝えるために言ってるわけではないですよね(多分)。

 そもそも、他の人に伝わるような完全にオリジナルな自分の言葉なんてあるのでしょうか。僕たちが誰か他の人が言葉を使っているのを読んだり聞いたりして言葉を覚えてきた以上、どこの国の言葉か、どの語彙を選択するか、どんな文体を使うか、どんな口調で言うか、そういった僕たちが使う言葉のいろいろな要素はいつも誰かの「引用」です。そういったいろんな要素を選んで、一つの文章を織り上げて、僕たちは自分の考えを言葉を発することで初めて「作る」んです。そう思います。

 威勢のいい高校生は、「あぁあ!?」とか「やんのか、おん!?」とか言うことで「先生と規則には従わない」という自分の考え方を作っているんだと思います。なぜそれが可能かというと、そういう台詞が彼の考えを作るのに有効な引用の「定型句」だからです。多分高校生にとっては、それを言うことで、それを言う前よりも言った後のほうが、「先生に反抗している自分」を強く感じているはずです。言葉にはそういうないものを作り出す力があります。


 前にどこかで村上龍が、「あなたはあの小説を書くことで何が言いたかったのですか?」と訊かれて、顔をしかめて「それがここで言えたら小説など書きません」というようなことを答えた、という話をどこかで読んだのですが、彼もまた、小説を書くことで、それを書くことでしか作れない何かを作っているんです。

 あと、僕には文章を書いているうちにだんだん自分の考えがわかってきくると同時にちょっとづつ変わってきて、文章書き終わる頃には自分が最初に書こうとしていたこととは違うことを書いていた、ということがちょいちょいあるのですが、そういうとき、僕は言葉を使うことで自分の考えを作っているんだろうなと感じます。

 だから、「twitterで人間の全ての考えはデータベース化されたらもう本なんて書くのは自分が居たことを形に残したいときだけだ」なんて話を読む時には少し寂しい気分になってしまう。twitterから生まれる言葉からはその言葉で作れる考え方しか生まれない。最大140文字の短いパラグラフを繰り返すことによってしか作れない考え方しか。それはそれで全然いいと思いますし、それを否定する気はないのですが、それで本がなくなっても構わないとか、長くてわかりづらい話はもういらないとか、そういう風にはなってほしくないと思うのです。

 この文章だって、僕が今まで読んだり聞いたりしてきたいろんなことを切り貼りして書くことで自分の考えを作っているわけなのです。それだけで結構僕は満足なのですが、それがどこかの誰かに伝わって、その人の考えを作るときの一つの要素になってくれれば、とてもうれしいな、と思います。