「おとうと」

おとうと <通常版> [DVD]

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 特に意外性もない昨今の「『死』の美学化」の映画という印象。「おくりびと」を観たときの違和感と似たものを感じた。

 僕らはこの映画でさまざまな遺体を目にする。生者に接するかのような丁寧さで遺体を扱い、死への旅立ちを準備する納棺師としての大悟の手つきは、物語の冒頭付近で映し出されるコンサートの場面で彼がチェロを扱うそれを想起させる。つまり明らかにこの映画における納棺師の仕事はアーティスティックな職人芸として示され、だとすれば彼の職業は文字通り死の美学化となる。化粧を施された死体は、時にまるで生き返ったようだ……と残された親族を感嘆させ、彼らの喪失感を癒すばかりか、大悟に生き甲斐(!)を与えもする。死を尊厳あるものとして美学化し、看取った人々に救済の手を差し延べること。僕が問題にしたいのは、最近の日本映画における“死のエンターテイメント化”の傾向なのだが、それはこれまでも無数に存在してきた映画を面白くするための死……といったものとおそらく微妙に性質が違っている。むしろ死をありのままに受け入れるといった装いの下で、しかし死が生に貢献すべく美学化される手のこみようが、僕の違和感の起点となるのだ。死を美しきものとして肯定しよう、ただしあくまでも“生”を肯定するために……。死の美学化は死者のためではなく、残された生者の満足や喪の作業のためにあるのではないか。死のおぞましさを回避する過程で、あらゆる死が“良き死”となり、望ましき“良き死”が人生の目的となる。“良き死”を終着点とする生こそ“良き生”と位置づけられるのだ。しかし、人は“生”を肯定するために、いかに多くの“死”を必要とするのか。
北小路隆志「“生”を肯定する力――『崖の上のポニョ』と『おくりびと』から」、『すばる』)

 人死はもっと不潔で、理不尽で、不可解で、不条理なものだと思うかもしれない。
 釣瓶の演技はすごかったけれど。