状況の批評

 卒論をほぼ全て書き終わりました。

 1970年代以降のアメリカ美術批評についての論文です。「美術作品」についての論文ではなく、「美術批評」についてです。だから、特定の作品を決めてそれについて書く、という感じではなかったのですが、いろいろな作品について知れましたし、面白かったです。

 もの凄く大雑把にいえば、僕が言いたかったのは、批評は美術作品が僕たちに与えてくれる経験そのものじゃなくて、作品とそれを観る人の関係だとか、作品とそれを作った人の関係だとかについて語ったほうがいいんじゃないの、ということです。
 
 何か作品を観て、多かれ少なかれ言葉にできない「ビリビリッ」とした経験が芸術が好きな人には大体みんなあると思うんだけど、それって凄く個人的で身体的な感覚だと思うし、それを言葉にして「私たちがこの作品で得られるのはこうこうこういう経験で、だからこの作品は芸術なんですよ」と語ることは、その「ビリビリッ」を「ビリビリッ」じゃないものに束ねることになってしまう。
 だったら、その人の「ビリビリッ」を生み出している状況だったり、作者が作品を生み出して、その人がそれを観たという物語のようなものだったりについて語るほうが、「ビリビリッ」を残して作品について語ることができるんじゃないかと思ったんです。
 ちょうどそれは、ある魅力的な男女の恋を、彼らの気持ちそのものを語ることでではなく、彼らが何をしたか、どんな服を着たか、どんな言葉を交わせたかについて事細かに語ることで描き出す小説に似ています。

 そういう批評の何がいいかというと、美術をあまり知らない人に対してオープンであれる、ということなのかもしれないです。「経験について語る批評」は言葉で語れないものを無理やり語ろうとする批評だから、難しい現代思想や美術史の専門用語がたくさん出てきますし、そもそも、作品が私たちに与える経験がなんであるかを語っているので、作品を観ないことにはそのお話に参加できない。
 「我々がこの作品を観ることで経験しているのはこういうもので、だからこの作品は芸術である」という批評が専門用語を多用しはじめてしまえば、批評の世界はその世界の外の人々に対してどうしても閉じてしまい、その批評によって評価される作品もどうしても「批評のための作品」になってしまうような気がします。
 
 作品の経験そのものについて語らない、そして専門的な言葉を(あんまり)使わない、作者と作品と鑑賞者の関係を語る批評というのは、それ自体一つの制作のようなものになっていくのはないでしょうか。作品の経験そのものを「説明する」のではなくて、作品と自分との関係を語ることでその経験を「示す」ような、そんな批評。そういうようなものって多分今はそんなになくて、正直自分でも具体的にどういうものなのかよくわからないんだけど、もしそんなものが書けるならとてもいいだろうなと思ったりしています。 

 「状況についての批評」が取り上げるのに最適なのは、例えばジェームス・タレルの作品なんかがあると思います。例えば直島の美術館にある彼の作品なんかは、間違いなく、作品が独立してあるわけではなくて、「直島」という場やそこに来た人々の気分や、そういったものを含む形であるものだからです。今度試みに書いてみようかな。難しそうだけど。