水村美苗『続 明暗』

続 明暗 (ちくま文庫)

続 明暗 (ちくま文庫)

 『続明暗』を読むうちに、それが漱石であろうとなかろうとどうでもよくなってしまう――そこまで読者をもって行くこと、それがこの小説を書くうえにおいての至上命令であった。(あとがきより)

 はずかしながら夏目漱石『明暗』は読んでませんが、漱石の小説の魅力は「漱石」という名前のもとにあるのではなく、「漱石であろうとなかろうとどっちでもよくなってしまう」ほどの物語世界の引力にあるのだ、という、なんだかわくわくするような挑戦の書なのだということはわかりました。

 内容について細かく書くことは、『明暗』も読んでないことだししませんが、印象に残った箇所を一つ。

 最後の最後まで津田には機会が与えられていた。そうして最後の最後まで、彼は自分に与えられた機会を見て見ぬ振りをして来たのだった。どの場面においてもその時取った以外の言動を取るのは容易なことではなかったからである。あれ以外の振舞に出るには平生(ふだん)の津田には無縁の何かが要った。それは事物や人間に対するある種の畏(おそ)れを有(も)った態度であった。或(あるい)はそういう態度を取る為(ため)の勇気であった。

 自分と周囲に嘘をつき続け、それによって遂に破綻に追い込まれた津田の場面。信用を得るには、事物や人間に対して「有り金を賭ける」ような態度が必要なのだ。それが叶わなければ自分の一切を失う、というような気構えが要るのだ。