場面緘黙症

 「何が日本の若者を俯かせてしまうのか?」について。もうこの種の語り口に食傷気味の人も多いのではないでしょうか。「日本の若者を俯かせている」のは人々を「若者」と十把一絡げにまとめて論じたがる自分たちなのではないかという疑念は出てこないのでしょうか。この人は何をもって「若者」と言っているのでしょうか?

 10代で孫正義に会いに行くIT少年もいれば、20代で意識高く海外に目を向ける大学生もいる。一方で、金沢には伝統芸能の和傘を現代的にアレンジして新たな美しい傘を作る20代の女性がいました。

 20代で新卒で会社に入らない人もたくさんいるが、30代で就職氷河期に苦しんだ人にも、同様に定職に落ち着けない人はたくさんいます。

 つまり、価値観やライフスタイルが多様化していて、単一の言葉でくくれるようなコミュニティはもうあまりありません。そこで「若者」とレッテルを貼ってしまうことは、いろんな人たちのいろんな可能性を否定するような雰囲気を作り出していることと同義なのではないでしょうか。


 こういうお話があります。

 場所によって口が聞けなくなる場面緘黙症の子が、教室で体を固くして立っていた。先生は、その子をじっと見てから、ビリーおすわりなさい、と言い、その子がすわると、黒板にむかい、サイコロ、と書いた。そして言葉を説明するために、サイコロをとりだし、机のうえでころがしてみせ、野菜をこういうかたちにするのをサイの目に切るっていいうのよ、でも、この四角いものは、ほんとうは、いろんな偶然を楽しむためのものなの、といった。(授業の)目的は、蓋然性や偶然性という概念を教室のみんなで探求することにあって、そうすることで、口をきかないという選択は口をきくという選択と簡単に替わりうることを認知させよう――ビリーに教えよう――というものだった。その子〔ビリー〕は熱心に聞いており、わずかに首をかたむけて唇をあけていたが、それはものを考えているときによくする仕草だった。先生はそんなささいな仕草をいつも見逃さなかった。唇をあけている=考えている、唇を閉じている=考えていない、耳をいじっている=考えている。


だが、その子は口をきこうとしなかった、頑として!(ディヴィッド・ミーンズ、「場面緘黙症」、「Esquire」、2009/07、p.272)

 ビリーに口をきけなくさせているのは、彼を「サイの目に切る」ように仕草で判断し、「場面緘黙症」というカテゴリーに回収する先生なのかもしれない。少年が頑なに抗っているのは、自分を「病人」としてしか見ることをしない先生の仕草そのものなのです。


 もちろん、その通りだと共感できる部分はあった。でもいかんせん語り口が共感できませんでした。